月が綺麗ですね

2018年調布市長選挙に立候補した社長のブログ

月が綺麗ですね
2018年調布市長選挙候補者 新井たくみ

プロフィール

 

Profile

 1969年に東京都府中市に生まれ。2歳のときに神奈川県津久井郡藤野町(現・相模原市緑区)へ転居。高校時代から交際した妻と26歳で結婚。第一子出産時の27歳より調布市民となり、菊野台⇒飛田給深大寺元町に現在は居住。MARCHな大学生の息子と娘を持つ、二児の父。

幼少期

画家を諦めグラフィックデザイナーへ転身した父の仕事について歩いていた際、子役としてスカウトされる。CMなどに多数出演するも、田舎からロケ現場に疲れ果てた母親の都合で引退する。おかっぱヘアーと「たくみ」という名前から、近所の子供たちから「女の子扱い」を受け、毎日虐められた。その際はズボンを降ろして「男の子」を証明していた。幼少期から牛乳1000mlを毎日飲み干していたためか、巨大&肥満児化した。

小学生時代

小学校2年生の算数で掛け算(九九)の暗唱会で44秒でクラス1位となる(ちなみに1学年23人の田舎の学校)。このとき先生に褒められるも「1位だったことよりも45秒を切ったことを褒めてほしい」(各段平均が結果5秒以内<5秒×9段であったという意味)と生意気な発言により担任には嫌われるが、それを聞いた校長からは九九の本質を理解できていると褒められた。同年の「よみうりランドの大声コンテスト」に一般の部で優勝し「日清ママースパゲッティ1年分」を獲得した。

小中学校では相模湖リトル・シニアリーグで主に捕手として活躍するも、関東大会では最強·調布リーグたちの壁に跳ね返されてきた。荒木大輔さんの実兄・健二氏らの活躍をテレビで目にして、「早実で甲子園!六大学野球で神宮!」を目指す。田舎の秀才が八王子の大手塾主催の直前冬期講習に乗り込むが6クラス中で最下位のクラスで更に最下位だった。早実中の算数の第一問であった「17/64時間~」に対し試験管に「一時間は60分だからミスプリントです」と訴えるも、相手にされず60分間ずっと泣き続けた。もちろん結果は0点だった。

 中学生時代

地元の藤野中学校の入学式直後、階段の踊り場で2年生の不良グループにブリキのバケツを被らされた上から酷い殴打を受けた。入学者一人ひとりの呼名の際の返事が大きかったのが理由。

中3時に冬のストーブ使用時間の延長を学校に求めたが受け入れられず、灯油登板の際に学校近くの駄菓子屋からもらってきたコカ・コーラの空きビンを使って地中に備蓄。休み時間に密かに補充していたところを校長に見つかりクラスのストーブ使用が禁止されたが、本人はその日から受験だったため、寒さからは免れた。この年、校長室での連続「正座&鞭」の刑記録9日間を樹立した。

学級委員投票では、中一時は満票、中二時は接戦勝利、中三時は0票だった。

進学先は早慶付属高校に複数合格したが、①当時の早実早大進学率が75%程度だったこと、②早実野球部の低迷期でもあり甲子園に行ける可能性が低かった(実際に高3時の早実は創部史上初の初戦敗退を喫している)こと、③受験勉強中に放映されていたドラマ「スクールウォーズ」でラグビーに感化されたことから、④自宅外通学を母親が希望したこと、⑤大雪の影響で会場入りが15分遅刻したにも関わらず試験会場であった理工学部のチャイムが故障し試験開始が同じく15分遅れ、泣きながら着席したと同時に試験が開始されたことに運命を感じたことから、ホームステイ(委託寮)制度が整い全国の田舎者が集う早稲田大学本庄高等学院へ進学する。

高校時代

一旦は野球部に入るが、入学当初から「お前、身体デカいな」と3年生部員に学食で頻繁に脅迫され、半年後にはラグビー部へ移籍させられた。体格がよかったため入部1ヶ月から左ロック(NO.4)で早々に公式戦に出場。当時の埼玉県は熊谷工や行田工など全国トップクラスの強豪校や日本代表クラスがひしめく激戦区で、努力の甲斐なく一度もベスト8の壁を破ることが出来なかった。

肝心な成績は、一年次は学年30番(音楽は学年1位)と優秀であったが、完全にラグビーに染まった二年次以降は学年中位~下位に沈んだ。

大学時代

1988年、教育学部社会科へ推薦入学と同時に、同年の日本選手権優勝の早大ラグビー部の門を叩く。初日に120人の新人が集まり、二週間後に70人、一ヶ月後に40人へと猛烈なシゴキの日々。全国から集まった精鋭たちをみて、「上には上がいるものだ」と痛感し、謙虚な気持ちが増す。181cmでは大学のロックでは通用しないと判断、体重が85kgあったことからスクラム最前列のプロップ転向。しかし夏前から背筋の怪我に苦しみ半年で無念の退部となる。同時に「教師になってラグビー部監督」という目標もなくなり、暫くの引きこもり生活を送る。この挫折が、その後も絶えず挑戦する意欲の源となった。

海外挑戦

大学4年時に財閥系大手総合商社五社のみの就活を決意するも全て不採用。それがダメなら就職浪人のつもりだったが、海外留学予定の悪友に唆され、20歳から趣味的に始めたゴルフへの挑戦を決意。1992年の卒業後の夏に全米最強のアリゾナ州立大学ゴルフ部へのテストのため渡米。76ストロークで一次テストは通過するも、最終トライアウトで不合格となる。目標をMBA取得に切り替えるもバブル後の家計都合により、1993年秋に止む無く帰国。

企業人として

帰国後はゴルフキャディーや家庭教師などのバイトで凌ぎ、1年間の中堅商社でのサラリーマンを経験後、某出版社のサポートもあり、27歳でイラスト制作会社を起業。暫くして当時のTOEFL617点の英語力を活かしての学習参考書の企画・編集、雑誌プロデュース、そこから大手学習塾の広告プランニングなどを手掛ける。

28歳より経営全般の知識の必要性のため中小企業診断士の勉強を開始。二次試験対策の「事例」科目の解答に反する店作りで成功したドン・キホーテの台頭や現役診断士の活動範囲の狭さを知り、資格取得を放棄する。しかし身に着けた経営、財務、労務、マーケ、仕入、法規といった知識を活かして、東証マザーズなどの証券市場のPR、流通小売業への卸売り、国内外貿易の支援、中小企業向け販売支援コンサルティング、それから派生した印刷業などを俯瞰的に手掛けるようになる。

2000年に旧知の広告系ベンチャー企業と合併。役員として新規上場/経営企画業務を通じて大企業論理や組織統制、事務処理力などを身に付ける。

2003年に新会社を設立。従来の広告系業務の他、信書保管や日本初の国産葡萄100%を使用した長期熟成型ワインの製造・販売を開始。

2006年より当時は概念のなかったクラウドビジネスに挑戦するも、07年末に技術力不足と資金難で撤退。

リーマンショックとネット環境の発達を背景にした新聞離れを背景に、2008年からは新聞購読率の低い杉並区、中野区、三鷹市を中心にテレビ番組誌付のチラシ配布サービス「ちらしんぼ」事業を開始。数十名のポスティングと配達要員を雇用するも、初めてモノに対する認知浸透に相当のコストを要し、再度の資金難に陥り、同年末にサービス中止。

2009年、所有するゴルフ会員権との惜別ラウンドに独りで出向いた際のスコアが1アンダー(71)であったことから、偶然にも同伴した大手流通業の役員からの救済により、倒産を回避する。

2010年、大型店舗のレジ前一等地の大型クーポンメディア「TakeValue」を開発。23区内でサービスを開始する。

2012年よりインターネット関連、古物ビジネス、各種雑貨の取扱いを開始。

personality

独創的すぎたのか、父親の絵は売らなかったらしく、しがないグラフィックデザイナーとして再出発したため、日々の生活はお世辞にも豊かではなかった。農協で借り入れた1万円でオレンジ色の農協牛乳を買い与えてくれた母親の姿を何度もみて育った。自宅裏のプレハブで夜なべして名刺印刷したり、化粧品を売り歩いたり、電気工場勤務の友人宅へ出向き1万円を借り入れる母親の姿を、これまた何度もみてきた。中学に入る頃からだろうか、後のバブル経済に向かい出した波のお陰で、父親の仕事は上向き出し、徐々に裕福な暮らしを実感しだすことになる。

 

「日本初」の商品やサービスへのロマン、拘りが強く、新規事業の企画立案を頻繁に行う事業プランナーを自称している。しかし、よくいう高額所得者向け商品やサービスには根本的に興味を示さず、その視点が大きな資金を要する大衆向けサービスに偏る傾向であったため、計4度もの倒産危機(資金の枯渇)を経験。その都度、乗り越えてきた自他共に認める『チャレンジャー&ドリーマー』。高い頂きを見つけては、先ず登ることから始めてみる冒険家。座右の銘は『七転び八起き』。

本音を建前とする男。嘘がつけない男。嫌われることを畏れない男である。

election

40歳を過ぎた頃というのは、過去を懐かしみ振り返り出す「大人の年頃」なのだろうか。不思議とあちらこちらで「同窓会」というものが盛んになる。卒業してから20年以上が経ち、夫々の現在地を確かめ合いたくもなるし、子育てがひと段落したりが理由だろうが、どうもこの辺りが職業のターニングポイントなのだろうか。サラリーマンにとっては出世の優勝劣敗が明らかになり出す頃なのか、同窓会には比較的「勝ち組」の参加率が高くなる。

そんな同窓会に参加したい思いもあって、仕事への熱も更に高まり出した折、高校大学の先輩との再会を機にユニークな飲食事業を共同でやろうと誘われ、寝る間も惜しんで夢を追いかけていた2013年。6月のとある日に「今日から一週間は神保町勤務だ」と半ば強制的に参加させられたのが、なんと都議選ボランティアだった。そこで衝撃的な現場を目撃することになる。神田神保町交差点のドトールコーヒーを貸し切って設けられた選対事務所に頻繁に出入りする自民党幹部の面々と壁一面に貼り廻られた政治団体からの無数の推薦状。「一体この候補者は誰なんだ」と驚愕した。実は後に都議会のドンとして小池女史に槍玉にら挙げられた内田茂・都連幹事長の事務所でだったのだ。それまでといえば、政治とは無縁で、投票なんかには二度しかいったことのない男が、盤石な都政を仕切る重鎮の権力と、それに群がる私利私欲に溢れた各業界の欲望をリアルに目の当たりにしたのだ。それまではプレゼンして勝ったの負けたのと、常に競走社会に曝されて正々堂々と闘ってきた自分が、どこか馬鹿正直に思えて、同時に生々しい政治と経済、いや行政と特定の取引業者との強固な結びつきを容易に知ることができた。そしてどこかで悟った。「政治家と繋がれば安定する。お金が廻る」と。それからはそうしたチャンスを伺うものの、そんな機会にはそうそう恵まれることなどはなく月日が過ぎていった。

ところがチャンスが訪れる。それから数年後の2016年の小池旋風が沸き起こる中、日ごとに増す政治への興味から、一度も講義に出ることはなかったが、「希望の塾」に登録。しかし、結局は票田を持つ現職の区議が優先される「出来レース」であったことから、公認をとれずに政治家を諦めていく優秀な人材たちの様を見ていくうちに、政党や地盤、知名度、資金力に制約されない自由な被選挙権を誰もが平等に行使できる社会環境の創造を掲げ、自らが『無所属・新人』として立候補することを決意。選挙当日まで出馬事実を知る者が10人足らず、家族には直前の新聞報道で知られるという状況の中で開始した初めての選挙において、3,666票(得票率2.7%)を集めるも、落選。

経済は一流、政治は三流といわれる我が国において「民間からの政治家輩出をサポートしていきたい」、その礎を築くフロント・ランナーとして、選挙に出て初めて分かる政治の世界、一市民には見えない選挙の裏側などを伝えられればと、ブログを開設。